「嫁ぐ娘に」  「愁香、明日はよいよお前の結婚式だねぇ…」 娘の顔を見つめながら、母親はため息をつくように言った。  「はい、お母さん」 娘は、そんな母親の寂しそうな顔を見ながら、答えた。  「しかし、お前、よく神前結婚式など挙げる気になったね。今では、 大変珍しい事なのに…」  母親は、隣の間にある白無垢の着物を見ながら言った。  「ええ、これは私が小さな頃からの夢だったの…子どもの頃、お父さ んと見た白無垢のお嫁さん…お父さんも、『お前も、ああゆう花嫁衣装 を着せてあげたいな!』って言っていたし…」  「お父さんが、生きていればねぇ…」 と言って、愁香の父親の遺影を見た。  愁香の父親は、愁香が中学に上がると同時に、心身疲労で死んでしま った。俗に言う”過労死”であった。それ以降、母親一人で愁香は育て られた。  そのたった一人の愛娘が明日嫁に行ってしまうのである。母親として は嬉しいような、悲しいような複雑な気持ちであった…また、娘として も母一人残して自分一人が幸せになってしまっていいのだろうかと、最 近思うようになっていた。  暫く二人して父親の遺影を見ていたが、ふと愁香は立ち上がり、外出 の支度を始めた。  「どこへ?」  心配そうな顔つきで見つめる母親に向かって、愁香は  「神田明神に行ってきます」 と、作り笑顔で答えた。  愁香にとって、結婚式の日取りが近づくに連れ、母子二人の家の中に 居るのが、なんだかいたたまれなくなっていた…  神田明神…現在では、神社や寺は神仏を崇めるより、ただ単に緑地を 残すための公園としての老人の憩いの場所や、観光客やアベックが奇怪 な建造物を眺めるだけの場所になってしまっていた…神道,仏教は急速 に衰え、日本人は信仰心を忘れかけていた。そんな時代の中で、神殿に 向かって二礼二拍手一礼をする愁香の行動を回りの若いアベックは、ま るで異能な物を見るような目で見つめていた。  でも、ここは愁香にとって特別な場所であった…  それは、幼い頃よく父に連れられて来た思い出の場所であった。愁香 の父親は、その世代の人間には珍しく、神道,仏教をこよなく愛した人 であった。  神社,寺院に参詣する父親の姿を見て、愁香も自然に父親の真似をし て手を合わせるようになっていた。  参拝が済み、自動販売機コーナーで珈琲飲料を買った。そして、神田 明神の大銀杏の下にあるベンチに座り、ホッと一息つく…愁香は、目の 前の神楽殿を眺めて、子供の頃を思い出していた。  (子供の頃、あの辺に飴細工の屋台があって…よくお父さんに、ここ の飴細工が欲しくてグズッたっけ…) と、愁香はクスッと思い出し笑いをした。  そして、おもむろに買ってきた珈琲飲料のリップルを開ける。一口飲 んだ瞬間、愁香は異様な頭痛を感じた… * * * * * * * * *  気がつくと、周囲は別段変わった様子はなく、回りの人々がさっきと は違っている気がするだけであった…しかし、注意して見るとさっきま では、目の前になかった飴細工の屋台が出現していた…  (あら…?さっきまで、あそこには何もなかったのに)  愁香は、不思議に思ってもう一度周囲を見回してみた。すると、飴細 工の屋台以外にも、愁香が幼い頃見た事がある、見慣れない着物を着た 女性が二人程わらわと、歩き回っていた。  (…?あれは、巫さんじゃなかったけ?今はもう居ないと聞いていた のに…)  愁香は不思議に思い、ベンチを立って神殿の周囲を巡った。  神殿脇の看板に「奉納 平成元年…」と書かれた酒樽が置いてあった の見た。  (えっ…平成元年…?今は、西暦2015年だから…えーと…27年 前?ずいぶん古い酒樽ね…でも…それにしては、ずいぶん新しいわね… 昨日奉納されたみたい)  神殿の回りを一周してベンチに戻ると、そこには一人の男が座ってい た。男は、ジュースを飲みながら、何かしきりに手帳に書き込んでいた。  男が不意に顔を上げて、近づいてきた愁香と目線があった。その途端、 愁香は驚いた!なんと、その男は写真で見た愁香の父親の若い頃にそっ くりだったのである。  愁香は思わず、口を手で押さえて「お父さん!」と小声で言ったが、 その声は、男には届かなかった。男に何か妙に惹かれるものを感じて、 男に声をかけそうになるのをこらえて、愁香は男と同じベンチに座った。  まじまじと男の横顔を眺めていると、  「観光ですか?」  男は、笑顔で優しく言った。  「えっ…?ええ」  愁香は、とっさうつむいて答えた。  うつむいて、男の視線をかわしていたが、男は愁香の行動を不思議そ うに思いながらも、また、手帳に何か書き始めた。  愁香は、男の視線を感じなくなると、男の事が気になり、自分の父親 に良く似た男の正体を知りたくて、意を決して声を掛けた。  「ここには、良く来るのですか?」  「ええ、私は、ここが好きでしてね。神保町で本を買った後で、ここ にお参りに来ます」  男は、相変わらず手帳にペンを走らせながら答えた。  愁香は、更に驚いた!男は顔ばかりでなく、声まで記憶にある父親に そっくりだったのである。  更に愁香は、  「ここの氏子さんですか?」  「いえ…違いますよ!」  男は、クスリと笑いながら、言った。  「でも…それに近いかも知れませんね」  「えっ?」  愁香は、男の方を向いた。  「多分、私に流れている血がそうさせるのでしょう」  「ち…?血ですか?」  愁香は不思議そうな顔をして男の顔を見た。  「はい、私の身体には、ここに祭られている”平将門公”と同じ血が 流れています。その反面、私にはまた、この”将門公”を退治した”藤 原秀郷公”の血も流れているのですよ」  愁香は、目を丸くした、それは…生前愁香の父親が愁香に聞かせてく れた父親の先祖の話、そのものだったのである。  愁香は、暫く黙って事の次第を整理していた、そして愁香は、一つの 考行き着いた、それは、自分が自分の父親の若い頃にタイムスリップし たのではないかと…  しかし、そう思っていても愁香は不思議と不安にはならなかった…多 分、自分の父親と一緒に居るからだろうか…  暫く考え込んで無口になっていた愁香に今度は男の方から話しかけて きた。  「名前は、なんと…?」  「しゅ、愁香…と言います」  愁香は、おどろいて引きつった声で答えた。  しかし、男はそんな愁香の反応を知らないかのように、話を続けた。  「ほう…”しゅうか”…さんですか?珍しいお名前ですね」  「はい…私の父が付けてくれました…」  「どう書くのですか?」  「え…?」  驚いて答えた愁香に、男の方がドギマギして、  「あっいえ、”しゅうか”と言う漢字ですが…」  「あっ…はい、こう書きます」 と言って、愁香はベンチに指で書く仕草をした…  「あっ!”愁香”…”うれい・かおる”と書くのですか…」  男は、しまった!という顔をした。  「どうかしたのですか?」  不思議そうに、のぞき込む愁香に、男は  「いやぁ…実は、その名前、私に娘が出来たら付けようと思っていた 名前なんです…」  男は、照れくさそうな笑いを浮かべて言った。  「そうでしたか」(お父さんは、生まれる前から私の名前を考えてく れていたのね)  愁香は、なんだか不思議におかしくなるのをこらえて思った。  「うーん、まだ誰も考えていない名前だと思っていたんだけど…」  男は頭を掻きながら呟くように言った。  「どう言う意味ですか?」  男は、照れくさそうに、ゆっくりと話始めた。  「私の名字は、”萩原”です」 と言って男は、手帳に名字を書いた。  「ほら…この通り、”萩”は”秋の草”と書きます。娘は結婚すれば、 名字か変わるでしょう…だから…私は、娘の名前にこの”萩”にちなん だ名前を付けて上げようと考えたのです」  愁香は、それを聞いて、ますますこの人物は自分の父親の若い頃だと 確信した。  「しかし…どうして”愁香”なんですか?」  「それは、こうです…先ほども、言ったように、”萩”は、秋の草で す。いや、漢字だけでなく、萩は秋に花を咲かせる植物です」  「はい…」  「ですから、この”秋”を使います。”秋に咲く花は、その香りが愁 いを持って香るだろう…”と」  「その内の”愁い”と”香る”とで、”愁香”ですか?」  「ええ…」  「…だから、”愁香”と…」  「はい…」  男は赤くなって、照れ笑いを浮かべた、愁香は自分の父親が自分が生 まれる前からこんな事を考えているのがおかしくなって、吹き出したい のを必死に我慢していた…  そんな折、二人の目の前に艶やかな白無垢の花嫁の姿が現れ、羽織袴 の花婿と共にゆっくりと、神殿に向かって歩いて行った。  「ほう…今日は吉日らしい…結婚式か!」  「…綺麗!!」  愁香は、花嫁の姿に暫く見とれていた。  「実は、私、明日結婚するのです」  愁香は意を決したように言った…たとへ相手には見ず知らずの人物で も、自分にとっては目の前にいる人物は紛れもなく自分の父親。いや、 これから自分の父親になる人物なのだから、せめて「おめでとう」の一 声が肉声で聞きたい一心で…  「そうでしたか、それは…それは、おめでとう御座います…」  男は、心から嬉しそうな笑顔を浮かべて言った。  そんな男の声を聞いて愁香は内心嬉しくなった。  「ええ…だから、結婚前に死んだ父に良く連れてきてもらった、ここ 神田明神にお参りに来たのです」  「そうでしたか…」  愁香の言葉を聞くと、男は不意に立ち上がり、目の前の飴細工の屋台 に行き、飴細工を買って戻ってきた。  「これ…あげますよ!!」  男は、まだ暖かい飴細工を愁香の手に渡した。  「いいんですか…?」  懐かしい、飴細工を眺め回して、愁香は言った。  「結婚祝いです!それに、ここの飴細工は逸品ですから!!」  男は、まるで自分の事の様に自慢した。  愁香は、飴細工を受け取ったとき、男の手の温もりを感じた、そして なにか胸から熱い物がこみ上げてきた、そしてそれは…言葉になって出 てきた。  「おっ…お父さん…」 と、愁香は言った…しかし、そのとたんに愁香はまた異様な頭痛がした… * * * * * * * * *  ハッと我に帰った愁香の目の前の景色は、先ほどとあまり変わってい ないが、先ほどまで目の前にあった飴細工の屋台が無くなっていた。  愁香は、改めて回りを見回してみたが、夕暮れのベンチに愁香が一人 ポツンと座っているだけであった…回りでひなたぼっこをしていた老人 や、寄り添っていたアベックの姿はもうどこにもなかった。  「あっ…あれは、夢だったのだろうか…?」 と独り言を言って、ロングのストレートヘアをかきあげようとした手に は、しっかりと飴細工が握られていた。  「あっ!こっこれは…」  愁香は、まだ暖かい飴細工をそっと手に包み、  (きっと、”将門公”が、お父さんに会わせてくれたのね…) そう思うと、愁香の目から人知れず涙が溢れていた。  神殿に向かって、愁香は心より手を会わせて拝礼していた。 藤次郎正秀